年をとって記憶力が低下するのは、心が満杯になったということ

年を取ったら記憶力が低下するのは当たり前。それは心が満杯になったということ。

年をとって物覚えが悪くなったと気にしてしまう人がとても多いです。「もうダメだわー」なんてひしゃげる人もいますね。わたしも、人生の終盤なので記憶力に難がでてきました。めんどくさいことは覚えられないし、ものの名前もすぐ出てこない。

ま、あまり気にしてなのですけれどね。

記憶と感情は強く関わっています。

ところで、記憶には感情がとても関わっています。感動したことや悲しかったこと、悔しさや怒りなど、心が大きく動いた時、記憶は鮮明に残りますね。
それは脳の中の海馬と扁桃体とが関係しているから。海馬は記憶をつかさどり扁桃体は感情をつかさどります。海馬と扁桃体は近い位置的にあって、互いに強く関係して働いていると言われています。

平ったくいうと、感情の動かないことは記憶力も働かないということでしょうか。心が動かないのに覚えろというのは難しいらしい。ただ、心が動くというのが、快だけではなく不快のどちらでもということです。できなかったら立たされる、なんてのも記憶力が働くということですね。嫌な記憶の方が鮮明というのもこの辺の理由でしょうか。

記憶は他者と安全に交流するために必要

つまり、若い頃はやらなければならないことがたくさんありました。自分に対しての期待や欲求もたくさんありました。世の中に、現実にしっかり目を向けています。心は感情に溢れ忙しく動き、脳もフルに働いていました。肉体も若々しく、細胞に弾力もありました。

記憶は他者と共有、共感するために必要です。その他者との共に過ごした時間を確認し信頼や親愛、もしくは敵対を確かめるため。そしてこれからを安全に過ごすことができるためになのですね。でもこの頃は、それも十分に完了したような気がしています。

そのせいでしょうか、そうそう心が動きません。心が満杯になったのだと感じているのです。

心が満杯になると、意識は魂に向かう

心が満杯になるとどうなるか、外の世界ではなく内側の世界に向かっていくのですよ。
そも、心が動くということは自分が何者であるかを知りたいがため。そのために「他者」が必要です。でも、肉体の使用期限が近づいてくると、「他」ではなく「自」に目が向くようになるのですね。

年を取るということは、とてもよいことです。生きるという役割を終える準備ができるから。それは自分自身の魂とのやりとりになるはずです。

限りなく哲学的に、宗教的に、霊的になっていきます。